【掌中の珠 最終章
4】
裏切った牧の領地まで、7日の行程だった。
山間部の盆地のような地形のそこへ行くには、いくつもの山を越えなくてはいけない。時期的に雨が多いとのことで、ほとんど毎日雨に降られ、行軍は苦労しているようだ。
「奥方様、こちらはどうですか?このあたりでとれる果物だそうで、食べやすいかと思います」
花つきの女官二人のうちの一人が、ガタガタとゆれる馬車のなかで、そういって赤く熟れた桃のようなものを差し出してきてくれた。
「ありがとうございます」
花は素直に受け取り、がぶりと食べる。
「おいしいです」
花が少し微笑んでそういうと、女官たちはほっとしたような顔をした。
「少しづつ食べられるようになられたようで、よかったです。お医者様からわたくしどもが毎日やいのやいの言われていますので」
もう一人の女官もうなずく。「そうですね、やっぱり外の世界の空気がよかったのでしょうか。でもこのガタガタは…」そういって顔をしかめる。
「特に体調に不安のない私共でも酔ってしまって食欲が……」そういうと、口に袖をあててうっと吐き気を我慢する。
女官たちの会話は続く。
「この山道はいつまで続くのでしょうかね」
「あと少しと聞いていますよ。もう目的の領地に入っていて、この山を超えたふもとが目的地だと。今日ももう暗くなってきてますし、いったんどこかで野営して、明日には着くんじゃないのかしら」
「野営するような開けた場所はこの辺りにはないわよね」
「じゃあもしかして夜中行軍してふもとについてから休むのかもしれないわね」
女官はため息をついた。「はやく馬車から降りたいです。その牧の館に泊まるのかしら?」
「いえ、話を聞くと、館に火をつけて牧は自殺されたそうなので……どうなるのかしらね」
女官同士の話を聞きながら、花は字を教えてくれていた先生を思い出していた。
自殺……先生の、お父さんだよね。
女官たちの話はまだ続いている。「丞相が兵をあげて向かってきているという報を聞いて、一族郎党、仕えている者までみんな自ら命をたったそうですよ」
「まあああ…なんと哀れな。まだ幼いものもいたでしょうに……」
花は胸がむかむかしてくるのを感じ、ぎゅっと目を閉じた。
「あの、すいません……ちょっと一人にしてもらうってできますか?」
花がそう言うと、女官たちははっとしたように謝った。「申し訳ございません、このような無神経なことを…」「後ろの馬車に移りますので、ゆっくりなさってください」「何かありましたらお声をおかけください」
そういって出ていった。出ていくときに馬車の出入り口にかけられている布がまくられ、外がもう暗く雨が降り続いているのが見える。山が迫ってきていて、細い難所を通っているようだ。
花がいる馬車は、行軍の最後尾で兵糧や物資の馬車団の前。一番安全な場所だった。
かなり大きな馬車で、中に机と壺、寝台を載せても余裕がある。天井も高く、立って歩ける。女官たちが去ってがらんとしたその中で、花はため息をついて寝台に横になった。じゃらっと脚につけられている鎖が音を立てる。
何人たりとも俺を欺くことは許さない
元譲から聞いた、友人から裏切られた時の孟徳の呪い。この脚につけられている鎖は、呪いがまだ孟徳をがんじがらめに縛っているということの表れなのだろう。
今も、あの先生を殺し、あの幼い兄弟を殺し、先生の一族が皆孟徳に殺されてしまった。自殺とのことだが、きっと孟徳はこうなることを見越していた。そのうえで花にあの先生をあてがい、父親の様子を伺い広く網を広げてからめとり、死ぬように追い込んだのだろう。うまく反乱を起こさず花の家庭教師をしてくれればそれはそれでいいし、そうでなくなったらすぐに気づき手を打てる身近におく。どっちにころんでもいいような手をうつのは孟徳のいつものやり方だ。
だが、そのおかげて、玄徳たちとの国境沿いでの争いは、多分回避されたのだ。
兵士たちも、その周りの農民たちも、皆助かった。
これが孟徳さんなんだ。
それなら私はどうすればいいのかな?
国の安定のため、孟徳さんを裏切る人を今後出さないため。多分孟徳さんはこれからも千人も万人も殺しちゃうんだと思う。
それなら私は?
信用してももらっていない私は?
孟徳さんの考えは変えられない。じゃあ、私の考え方を変えればいいの?
「……」
花は首を振った。ううん、あの男の子たちや先生を簡単に殺しちゃうのを、しょうがないって何も思わないなんてできない。
孟徳さんと同じ考えになれない、でも傍から離れられない私はどうしたらいいんだろう?
花の目からは自然と涙が頬をつたっていた。
人を殺さなくてもいい世の中。
花が育ってきた現代の日本はそうだった。しかし、ここでは、そんな世の中にはしばらくはならないだろう。
孟徳さんが人を殺して、他から財産を奪って、自分の国を富ませるのなら。
それが少しの人を傷つけ殺し、大勢の人を生かすのなら。
私はどうしたらいいんだろう。
孟徳はざっと目を通した竹簡を真ん中から真っ二つに折るのを我慢していた。
目の前で片膝をついている玄徳陣営の子龍が、全神経をこちらに集中させているのを感じる。静かな馬車の中にはガタガタと悪路を乗り越える馬車のきしむ音のみ響いていた。
主に忠実で、優秀な武人。子龍のことを孟徳も欲しかったが、粉をかけてもまったくの無視で、今も変わらず子龍は玄徳の忠実な犬のままだ。
「わざわざご足労いただきご苦労だった。玄徳殿には了解したと伝えておいてくれ」
孟徳はそういうと、立ち上がった。
「もう外は暗い。雨も激しいし今夜はこちらに泊まられるがいい。旅の途中の上馬車の中故歓待はできないが、できるかぎりのことはさせていただく」
孟徳はそういったが子龍は首を横に振った。まあそうだろうとは思っていたが。
「ありがたきお言葉ですが、主も返信を待っていると存じますゆえ」
固い声で子龍はそういうと、スッと立ち上がり深く一礼をし、去っていった。馬車の入り口の垂れ幕から夜の雨の匂いが入ってくる。
孟徳は椅子の背もたれにもたれると、もう一度竹簡を見直した。
玄徳からの文には、天候の悪い中悪路を行軍してきた労をいたわり、牧の自殺を悼み、国が違うとはいえ自分にも何かできたのではないかと後悔と申し訳ない思いでいっぱいだという、例の玄徳節が満載だった。そして明日にでも、ふもとで一度会えないかと。
これで本音は、のこのこやってきた俺の暗殺とか企ててたらまだマシなんだがな。
それなら孟徳の対処も簡単だ。叩き潰して憂いの種をこの世から消し去ればいい。だが玄徳はそのような姑息なことはせず、堂々と義をうたい漢王朝を盛り立てていこうという。そういうおきれいごとが好きな輩が玄徳のもとに集まっていくのを、孟徳は警戒していた。
金でも権力でもおちない人間は、扱いが難しい。孟徳はふと花を思い浮かべ、またため息をついた。
そうなのだ、あの二人は似ている。花は玄徳と一緒にいるほうが生きやすいだろう。あの時花が川に落ちなければ、そしてそれを孟徳が拾わなければ、玄徳のとこに居続けたのだろうし。そうだったなら、当然だが今回のようなことを花は経験しなくてもよかっただろうし。
つまり何か?
今の花ちゃんの悲しみも、精神的な痛手も、そこからくる体調不良もすべて、俺のせいか?
「……」
考えがおもしろくないほうに行って、孟徳はむっつりと左右を見渡した。
孟徳専用の広い馬車の出入口に、兵士が一人控えている。
「そこの。花ちゃん……奥方様の様子は?」
「はっ。最近は食事も少しながら取られるようになっていらっしゃると伺っております」兵士が言いかけた後ろから、元譲が「孟徳!」と言いながら馬車の中に入ってきた。鎧が雨に濡れ、しけった泥の匂いが馬車の中にも入ってくる。
「玄徳からの使者は帰ったのか」
「ああ」
元譲はどっかりと馬車の床に座った。
「ひどい雨だ。なんとか難所は通り過ぎたが、後続の兵糧部隊が車輪が外れた馬車が続出してな。一緒に来るのは難しいようだ。馬車はここに置いて、明日以降天候が回復してから動かした方がいいかもしれん。左手の川が雨で増水していて落ちでもしたら危険だ。どうせ明日には目的地につく。そこで大勢を整えてから荷を取りに来た方がいい。」
すぐに元譲に酒が出された。夏が近いはずだが天気が悪いのと山の中なのとで結構寒い。
「わかった。兵士を必要な分だけ見張りでおいていってくれ。もう牧の城はすぐだ。焼け残った棟も多くあると報告をうけているし、食料も十分あるだろう。兵糧はお前の言った通り置いていくでいい」
今回の行軍は花と身の回りの世話の女官がいるため無茶はできない。それに牧が焼死したばかりのこの土地はまだ不安定だ。変な動きをして玄徳に足元を見られたくはない。
早く城について安全を確保してからだ。
「さっき、花のことを聞いていたな」
元譲が一気に酒をあおった後、孟徳に言った。「ああ」と孟徳も差し出された酒を受け取りながら元譲を見る。
「この前見たら、あれだ、まだ、その……鎖をつけたままだった。お前は知っているのか?」
「ああ、それか」
特に行軍の間も鎖で縛るようにとは指示はだしていなかったが、城にいた時には少年たちを救うために逃げ出したりしないように鎖でつなげと命令は出した。その命令がまだ有効だと部下が勝手に気を回して、この行軍でも鎖を付けたままにしたのだろう。
「そうか。もう、取ってやってもいいんじゃないか?逃げんだろう」
「まあ、そうだな。あっちについたらそうしよう」
後少しで牧の城へ着く。そうしたらそこでは鎖にはつながないように指示をだそう。孟徳としては鎖につないでいた方が安心だという気持ちもあるが、花は嫌だろう。花には快適に過ごしてほしい。
その時、後ろの方で巨大なものが動くような不気味な音がした。同時に叫び声と地響き。
元譲が立ち上がる。
「何かあったか?」
玄徳が攻めてくることはないだろうと読んでいたが、はずれたか?いや、牧の味方がやぶれかぶれで特攻をかましてきたのかもしれない。戦闘にはならないと踏んで花の鎖をつけたままだったのだが、と孟徳は一瞬悔やんだ。鎖のせいで逃げられない敵方の女、しかも曹孟徳の思い人となればどんな目に合うかわからない。
孟徳は剣をもって立ち上がった。「何事だ!」
馬車の外に出ると馬から降りた兵士が駆け寄ってきて膝をつく。
「がけ崩れです!」
「孟徳!待て!孟徳!」
後ろから聞こえてくる元譲の声を無視して、孟徳は雨の中馬を走らせた。いや、走らせるにも足場が悪く思うようにスピードはでなかったが、徒歩よりは早い。脇を兵士が走りながら報告を続ける。
「食料が積まれている馬車が土砂の直撃を受け、崖下へと落ちたようです!」
すぐに現場に到着した。そこは混乱の極致だった。人と馬が入り交じり、泥だらけになりながら崖から荷物や人を引き上げたり負傷者を運び出したりしている。怒号が飛び交っていた。
「彼女の馬車は!?」
玄徳が馬の上から言うと、そこの現場を取り仕切っていたらしき兵士がすぐに孟徳と気づき、駆け寄ってきた。顔が真っ青だ。
「奥方様の馬車は土砂の直撃はなかったものの、前後の車に引きずられて崖をずり落ちています。今兵士を助けにむかわせています」
孟徳は小さく息をすった。ひゅっとのどの奥が鳴る。馬から降りて崖へと走った。
「待て!お前が行ってもなんにもならん!」
後ろから元譲が羽交い絞めにする。
崖の端から下をのぞき込むと、土砂になぎ倒された木々の上を馬車や荷馬車が3台、ずるずると崖をずり落ちて言っているのが見える。馬がいななきあがくが、地面自体がずるずると落ちて行っているのでどうにもならない。その先は雨で増水した流れの速い川だ。その馬車に向かって兵士が20人程度向かっているのが、上からも見えた。
「急げ!彼女を助けるんだ!」
身を乗り出して叫ぶ孟徳を、元譲が後ろから止めている。兵士たちは必死に落ちていく馬車に向かっているが、大量の土砂や倒れた木に阻まれなかなかたどり着くことができない。
「いかん、流されるぞ」
元譲が小さく叫ぶと、その声が合図だったようにその馬車が川岸にあった大量の土砂とぶつかり、ぐしゃりと形を崩した。花の乗っていた大型の馬車だ。まだ形を保っているが川の水に下の方から洗われ出している。
「流されるぞ!」
兵士たちが叫ぶ。
そして孟徳が見ている前で、馬車と荷馬車は、馬ごと川の水にのまれた。
どん!と大きな衝撃を受け、何事かと花が立ち上がった直後に、馬車が傾いた。花はそのまま馬車の壁面に体を打ち付ける。
「な、何?」
外では人の大きな声や馬のいななきが聞こえる。何かあったのだ。
花は四つん這いのまま馬車の出口へ向かおうとしたが、またガタン!という音とともにさらに傾いてしまった。「わっ!」
お、落ちてる?
これはたいへん……確か左手は谷川だった。そこに向かってずるずるとだが落ちて行っているような気がする。壁にかかっていた布がとれ落ちてくる。反対側においてあった寝台や椅子も、壁に向かって滑り落ちてくる。
「に、逃げなきゃ…」
落ちてくる壺や器をよけながら、花がもう一度四つん這いになって出口に向かおうとすると、脚が何かにひっぱられた。
「あ……」
鎖。
そういえばつながれてたんだっけ。
花は、どうしようと焦るよりも、もうだめだとあきらめる気持ちの方を強く感じた自分に驚いた。そしてそのあきらめが絶望ではないことにも。
脳裏に、文字を教えてくれた先生の顔と、一緒に勉強をした幼い兄弟の顔が浮かぶ。そのあとに、孟徳の顔も。
このまま死んでしまうのが一番いいのかもしれない。
あの子たちには本当に可哀そうなことをしてしまった。花が彼らをあの世へと追いやってしまったのだ。このままここで花も死ねば、彼らの黄泉の国への道案内ぐらいはしてあげられる。
孟徳の傍で生きる辛さはもう十分に思い知った。吐く息が苦く胸が苦しいこの世界に必死でしがみつく必要があるのだろうか。
孟徳さんをどうこうしようなんて私には無理だし、こんなことはこれからも孟徳さんのそばにいる限りきっと何度もある。
こんな身を切られるような辛さを、これから何度も……?
馬車の壁がバキバキと音を立てながら折れだした。反対側の天井がつぶれる。ゴウゴウという川の音がもうすぐそこに聞こえてきた。バキッと音がして、馬車の四隅にある柱が折れる。そのに伴い、花を拘束していた鎖が緩んだ。結びつけられていた柱自体が折れてしまったのだ。
命の危機だというのに、花の頭はカスミがかかったようにぼんやりとしていた。床を冷たい川の水が浸食してくるのをぼんやりと眺める。
このまま死んじゃうのかな……
川の水、冷たいよね。息も苦しいのかな…
前におぼれた時は、孟徳さんが助けてくれた。今回は誰か助けてくれるのかな?
……私は、助けてほしいのかな……
天井が崩壊し、土砂と水が一気に流れ込んできた。
孟徳さんは、私が死んじゃったら、どう思うかな。
花が最後に思ったのは、孟徳のことだった。
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